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なぜサウナに時計を置かないのか?

こんにちは。Nayuta前田耕平です。

ちょいちょい言われるので、ここいらで
「Nayuta 2Fの温浴施設"FURO & SAUNA THE VANISH"(以下VANISH)のサウナになぜ時計を置かないのか」
を書かせていただこうと思います。

正直、時計を置くのは容易いです。嚢中の物を探るより容易いです。
なのに敢えて置かないのは

「友達と会う時に、タイマーで解散時刻を設定したりはしないから」

ということです。
仲の良い友達と遊ぶ際、シンデレラではないのでイチイチ終わりのタイマーを設定することはしません。お互いの気分や都合により、どちらかが(あるいはなんとなくお互い阿吽の呼吸で同時に)、「ぼちぼちいこーか」と切り出し、「お疲れ。楽しかったわ。またいこーや。(握手)」となるのが普通です。それと同じ。

(もちろん、時間管理したい方はご自身でしていただいて全く問題ございません)

VANISHではサウナはトレーニングでも我慢大会でも汗出し選手権でもないと思っています。長時間入っていれば当然暑くなって限界に達しますが、基本的には「心地良い」時間なので、自分の気分や体調等を鑑みて「主観的」に終了を決定すべきだと思います(浴室に露天風呂からも見える時計があるので、予定が迫っている方はその時計をご覧になってください)。それは友達との関係と同じです。(サウナでいう「友達」は自分自身のインナー・ヴォイスどころか、もしかしたらサウナの妖精かも知れません。耳(心?)を澄ませば妖精さんが「ねえ、ぼちぼち出たほうがいいよ」と語りかけてくるかも知れませんし、そうでないかも知れません。サウナには数千年以上の歴史があると言われています。キリスト教成立以前のアニミズムの時代から存在していて、つまり自然崇拝の考え方がベースにあり(古代日本の感覚とも親和性高いかもですね)、歴史的に考えるとそういうことです。人間には五感があるとされていますが、発見されてない知覚が他にも存在している可能性を完全に否定することは原理的にはできません(経歴等に目立ったものが無くても、何とも言えない圧倒的な存在感を放っている人に遭遇した経験は誰しもあると思います。そういう人は恐らく、人類がまだ可視化、言語化、数値化できていない、つまり共通認識になっていない何かしらの能力が卓越しているのだと思います)。こういうのが好きな人は「アイ・オリジンズ」という尋常ではなく素晴らしい映画があるのでよかったら観てください。Radioheadが好きな方もぜひ。)

(もちろん、言うまでもないですが数値管理の全てを否定しているわけでなはありませんので悪しからず!)

色々な考え方があって良いと思いますが、サウナとは本来「仲間と仲良く(勿論一人で静かに、でも全然いいけど)暖をとる」ものであり、その考え方を大事にしたいと考えています。

「サウナは90度以上で、お喋り厳禁で、サウナハットを被るもので、熱源は薪で、ロウリュができて、12分計があり、水風呂は15度で、外気浴ができ、オロポが飲めてはじめてととのう」的な「かくあるべし」というような分かりやすい「業界のフォーマット」が発生していく(発生させていく?)ことは已むを得ないことですし、悪いことでもないと思っています。「そのフォーマットのおかげでサウナ業界が盛り上がり、我々も恩恵を受けている」面も確かにあることは理解しています(もちろん、フォーマットを提唱した人に全く悪意は無く、社会がご自身でも思いもよらない事態に畝っていくことがほどんど。「おもてたんとちがーう!」てやつ)。
しかし、そのフォーマットを振り翳したり押し付ける事例が増えることで、レヴィ=ストロースではないですが業界や世界が画一化していくことは残念なことだと思います。
これはグローバリゼーション時代の陰の部分だと思います(グローバリゼーションはネット時代の今の始まったことでなく、厳密には有史以来大なり小なり起こってきたことで当然良い部分もそうでない部分もある)。ネットの隆盛により、マイノリティーカルチャーが日の目を見る事例が発生することは良いことだと思いますが、一方で一部の覇権が一方的に正義を振り翳して断罪し、介入の対象になった共同体が以前よりも悲惨な状況になってしまった歴史的事実は枚挙に暇がありません(「フォーマット」や「説」の功罪をテーマにしたコントとして、お笑いコンビ「さらば青春の光」の「タイムマシン」というものは極めて秀逸で面白いので興味がある人は観てください)。

私が尊敬してやまない故中村哲氏(アフガニスタンで灌漑事業に尽力され65万人もの生命を救ったとされ、2019年に不幸にも凶弾に倒れた福岡出身の医師)もおっしゃっていましたが
「いかに不合理に見えても、そこにはそこの文化的アイデンティティーがある」
ということは大切な視点だと思います。
もちろん「ただただ理不尽な状況がありそれを外部の第三者が正す」ある種の「救済」のような合理的ケースはいくらでもありますが、善悪二元論に走り過ぎるのは危険だと思います(とは言えゾロアスター的な世界観も凄いし面白いと思っています。基本的に長い歴史があるもので深淵でないものは無い)。
これは我々が「お客様のお声を無視する」と言っているのは決してありません。基本的にお客様のお声は尊重し、いつも議論しています。ただし、ご要望があったとしても「リソースやコンセプト等の関係でどうしても実現できないことはある」ということです。それはどのお店や施設でも同じだと思います。

少し大きな話にはなりますが「多くの偏見や紛争は『単なる違い』を『優劣』や『正誤』と捉え、自己の『優越性』や『正しさ』を正当性の根拠として、他者を攻撃することで生まれることが多い」ということはよく言われていることです。
(何かについて論じる時は「品質」(レベル)の話と「路線」(タイプ)の話を分けるべきであって。フォークソングに「速弾きが無いならダメ」とか言われても困るわけで)

「時は金なり」ということは資本主義の象徴的な言葉だと思います(資本主義を否定しているわけではありません)。

「数字」というものには、時には「乱暴」とも言えるくらい、有無も言わさない圧倒的な力があります。「客観的」とされている概念は、それだけに恐いものでもあります。
本来その数字以外のパラメータがあったとしても、思考停止させそれを無視させてしまう威力があるわけです。
もし数字が全てならばレシピさえあれば料理人の腕は関係ないわけです。
しかし、分量等の数字が列挙されていたとしても、素材であれば当然サイズや味等の個体差がありますし、醤油にしたって塩分濃度も風味も違うわけです。そういった無数のパラメータを見極めて微調整し、適切に調理をするのが料理人なわけで、全く同じレシピで作られた料理でも料理人の腕によって仕上がりが全く変わってくるのは当然です。
人間にとって不可欠な「文化」は数値化や言語化が容易でないファジーなものに支えられているということです。
温度計にしてもそうで、温度以外にも湿度をはじめ多くのパラメータが存在しています。もちろん「参考」にはなりますが、それを唯一の指標として絶対視すべきではないと思っています。

「数字や事実で物事を単純化」することは、確かに極めて合理的で「タイパ」や「コスパ」の面では優れてはいますが、そのことによって抜け落ちてしまった「味わい」というものが存在することは強く意識すべきだと思います。
そもそも人間とは、社会とは極めて複雑で面倒なものであることは誰もが知っていること。
多少違和感を感じたとしても、複雑なものを「容易には理解しがたいもの」としてありのままに受け止めることも大切だと思います。

必ずしも多数派の意見が「正しい」わけではないですし、そもそも何をもって「正しい」のかということも非常に難しい問題です。

ま、「論争」が巻き起こるは悪いことではないがですが。

本音を言うと「作品が全て」というスタイルを貫きたいところです。クドクドと現場で「説明」するのは「説得している」ようでダサいし野暮ですが、しなさ過ぎるのも不親切だと思うのでバランスを考えながらやらせていただきたいと思います。

Nayuta
前田耕平


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